「----コーヒーはどこにありますんで。 ------買ってきてよ。」P83
私はアニーの手紙を書類入れの中に滑り込ませる。それが可能な限りのものをわたしに与えたからだ。こ の便箋を手に取り、たたんで封筒に入れたひとりの女まで、考えを遡(さかのぼ)らせることはできない。過去の だれかを考えることぐらいは可能なのだろうか。私たちが互に愛しあっていた限り、ふたりで過すほんの わずかな瞬間も、ごくつまらない苦労も、それが私たちから離れて背後に残ることを許さなかった。一 日の音や匂いや微妙な色調、互に打明けなかった考えさえすべてを私たちは持って行き、すべてはいき いきとした形で残っていた。私たちはそれらのものを現在において愉しみ、また苦しむことをやめな かった。ひとつの思い出とてなかった。あったのは灼けるが如き強烈な、影も交代も避難所もない恋愛 だけだった。三年の月日が、そっくりそのまま現存していた。しかしそのために私たちは別れたのであ る。この重荷に耐えるだけの力がもう充分には無かったからだ。そしてアニーが私から去って行ったと き、三年の月日がひと塊りとなり、一遍で過去の中に崩れ去った。私は、苦しみさえしなかった。自分 が虚ろになったのを感じただけだった。それから、時間が再び流れだし、虚ろが拡大した。それから、ハノ イで私がフランスへ帰ろうと決心したときも、まだ私の記憶に残っていたあらゆるものが ---外国人の顔とか、広場とか、長い河に沿った河岸などといったものが---みな消え失せた。かくて 私の過去は、もはや一個の巨大な穴でしかない。私の現在と言えば、カウンターのそばで夢想している 黒いブラウスの給仕女と、あの男だ。私が自分の人生について知っていることは、すべて書物から学ん だように思われる。ベナレスの宮殿、癩(らい)王の露台、大きな壊れた階段のあるジャワの寺院などは、一瞬、 私の眼の中に映されたが、それらはそれぞれの場に残っている。プランタニア・ホテルの前を通る電車 は、夕方ネオンサインに彩られるホテルの看板をその窓硝子に映すが、その反映を攫(さら)ってはゆかない。 電車は一瞬真赤に燃え上がるけれども、黒々とした窓硝子のまま遠ざかって行く。P105-106
新しいブラウンの髭剃りを使ってみる。う、こんなに軽いタッチで皮膚に当てるだけで、快適に剃れるなんて、すごい。気持ちよい。軽い感じもする。いいないいな。
それはよかった。心も体も落ち着いたかな。